タイフルーツブログ
2017.08.21
ハノイ挽歌
20年ほど前に辺見庸さんの「ハノイ挽歌」を読み、行ったこともないのにノスタルジックな思いに駆られて、旅に来たハノイ。
当時住んでいたシンガポールの窮屈さから見れば静かで暗くて、しかしどこか懐かしいこの街は、まさしく同書で形容されている表現そのものでした。
「ぼくたちの同時代からあきれるほど取り残され、それ故疎んじられ、忘れかけているその風景に、ぼくはこよなく愛おしいものを感じるのです」
20年ぶりのハノイ。
ホテル・トンニャット(統一)は、今は「ソフィテルレジェンドメトロポールハノイホテル」という仰々しい名前に変わり、高層ホテルやマンションが建ち並び、フォー1杯が8万ドン(4ドル)というぐらいに物価ももちろん上がったけれども、それでもシンガポールはもちろん、今やバンコクでも感じるようになった「無味無臭無表情の機能と効率」が支配している、というようには感じません。
ホーチミンが何度行っても総中流化した前時代版バンコクという感じしかしないのに比べて、このハノイには僕の胸にグッと来る、ある種独特の感覚がまだ残っています。それは非効率的で非生産的なものが、しかし活き活きと残っているという確かな感触かもしれません。
夜のホアンキエム湖の畔は今も恋人たちの憩いの場ですし、相当観光客専門になったとはいえシクロもまだ走っていますし、それにあのレーニン公園の共産主義的サーカスもまだ残っています。
「ただ意味もなく移ろう僕たちの時代から、プツリと切り離された絵があり、それがこの世で最後の永遠を宿しているように思えるからです」
20数年前に辺見庸さんがそう形容した、ハノイ。
「ハノイにまた来たい」という思いを強くしました。